プロレスには昔からヒールという立ち回りの人がいて、いわゆる善玉レスラーを血だるまにし、時には観客を追いかけまわし、人々に恐怖を植え付け憎しみを一身に浴びたものです。
私が小学生のころ(昭和50年代前半)は、とにかくタイガージェット・シンが心の底から怖かったです。陰気な入場曲と同時に神経質そうに首を振りながら入場すると観客を追い回し、試合では栓抜きのような凶器をパンツから出して猪木を血だるまにして何と悪辣な外国人だと思いました。当時は周囲にプロレス好きのおばあちゃんが多く、普段は温厚でおとなしい彼女たちがテレビに向かって「シンを〇せー」と叫んでいるのを見るとますますヒールレスラーへのヘイトが向いたものです。聞けばその前には、新宿の伊勢丹という公共かつプライベートの場で買い物中の猪木夫妻を襲ったこともあると聞き、「これはもはや犯罪者ではないか!」「あんな外国人をなぜ入国させるのか。政府は何をやっているのか」と大真面目に憤っていました。
他にも人気レスラーの膝をフォークで刺すアブドーラ・ザ・ブッチャーやヤスリで研いだ歯で相手に嚙みつくブラッシー、炎を吹くシークなど恐ろしい外国人レスラーがたくさんいました。日本人でもタイガージェットシンといつもつるんでいる上田馬之助や初代タイガーマスクのマスクを剝いでいた小林邦明など、街を歩いていても心無い言葉を投げつけられたり刃物入りの手紙を送りつけられていたそうです。
まあ今では、ネットや動画で「ヒールレスラーは本当は良い人」みたいなものがたくさん出ていますので、実はタイガージェットシンが篤志家だったり、ブッチャーや馬之助が養護施設の慰問をライフワークにしていたことなど、簡単に知ることができます。
最近では新日本プロレスのグレートオーカーンが少女を怪しい奴から助け出したというのもありました。
プロレスというのは一歩間違えば命を失ったり大けがしたりする可能性があります。考えてみれば、プロレスの対戦者同士はお互いに強い信頼関係が無いと技の応酬や一連のムーブメントを思い切りこなせないでしょう。お客さんが興奮してカタルシスを得ないと興行そのものが成り立ちません。
元々信頼関係が築けないほどの人間としての悪人はリングには上がることができないわけです。
興行の成功のため、淡々とヒールをこなし、見ている人に心からの嫌悪を呼び起こさせるヒールレスラーには、今や仕事人としての矜持を感じ尊敬してやまないようになりました。